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聖衆来迎寺(大津市比叡辻)森可成公墓

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写真: 聖衆来迎寺(大津市比叡辻)森可成公墓

写真: 田中城(高島市)北東から 写真: 聖衆来迎寺(大津市比叡辻)開山堂

「港区浜松町」→ http://photo.mixi.jp/view_album.pl?owner_id=32815602&album_id=500000087006714 コピペ──
2013年10月10日 14:21
表紙記事なし!∠(`´)ビシッ

なので――
●大久保加賀守――
http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=1523238101&owner_id=32815602

●関但馬守――
関新見家・新見藩関家、美濃関家、森美濃家分家

1、長政、従五位下・但馬守、備前守
成次次男。
(関家の代目は不明。幕藩体制下、大名となってからの代数。)
・美作国宮川藩
2、長治、従五位下・備前守
森長継6男。
→備中国新見藩

3、長広、従五位下・但馬守
森長俊次男(←長継5男。三日月藩初代)。
4、政富、従五位下・播磨守
嫡男。
5、政辰(まさとき)
政富次男(5男説)。
6、長誠(ながのぶ)、従五位下・備前守
政富長男(庶子)。
名君と謳われる藩政改革者。

7、長輝(ながてる)、従五位下・備前守、但馬守
嫡男。
8、成煥(しげあきら)、従五位下・備前守、大蔵少輔、備前守
嫡男(次男説)。
9、長道、従五位下・但馬守、備前守
森長義次男(4男説。三日月藩6代。←関長誠次男)。
10、長克(ながかつ)、従五位下・備前守、民部少輔、伊勢守、従五位上、子爵
関長吉長男(←関長輝次男(3男説))。



※美濃関氏――
美濃国武儀郡関村を根拠地とした関氏は、本姓が源姓か藤原姓か明らかにならない(出自が明確にならない)。発祥地と、戦国時代に織田家に仕えた以降は確かなようである。

摂津源氏 山県氏族説。家祖は山県兵庫頭氏頼の3男 彦三郎氏昌。その8世孫 関長重(成重)が、父 綱長と主君斎藤道三の死後、織田信長に仕え、近江国における浅井戦で武功を上げたという。これにより尾張国一宮に所領を与えられ、一宮城を築きこの地を新たな根拠地とした。また、一宮の地にあった真清田神社(ますみだ。尾張国一宮)の神主の家系とされ、実際に神主を輩出している。

藤原北家佐野氏族説。その後裔の佐野師綱が、美濃国武儀郡に居住していた時に生まれた子、十郎太郎長綱を家祖とする。その子 小十郎が土岐頼遠に仕え、美濃に土着。その後裔とされる綱長は、土岐頼芸没落のち斎藤道三に仕え、長重の代に織田信長麾下へ。

長重(成重)の子 成政は、織田信忠付きの家臣として勲功をかさね、元亀3(1572)年、同じ織田家臣 森可成(よしなり。美濃森家嫡流14代。清和源氏義家流)の娘と結婚した。森家との血縁関係が始まる。
義弟 森長可(ながよし。森可成次男。15代)の与騎として働き、長島一向一揆、三木合戦、甲州征伐などに参戦。小牧・長久手の戦いでも長可軍に参陣したが、仏ケ根の戦いで長可ともども討ち死にした。

成政戦死後、関家は実質的に森家に取り込まれたような形となった。成政の子らは森家を相続した忠政(森可成6男。美濃森家嫡流16代)に仕えている。
成政嫡男 武兵衛は森可政(よしまさ。14代可成の37歳差の弟)の娘を娶っていたが、忠政と不仲になり出奔、後榊原康政に仕えた。しかし、大坂の役での恩賞が無い事に不満を抱き榊原家も出奔。以後は不明。
関武兵衛長男、森可信。榊原家退転時に可政に預けられた。元服後、森姓を与えられ津山藩に仕えた。
武兵衛次男、森可明。兄同じ。父の名、武兵衛を称する。1000石。
成政次男 関宇兵衛。森家に仕える。1000石。
成政4男 了向。石山本願寺との和睦の際に僧籍へ入り、美濃国金山妙願寺の住職となる。忠政の美作国転封に伴って妙願寺も美作へと移転する。
成政5男 成次。津山藩家老。忠政の娘婿。
成次長男 関家継(森長継)。2代目津山藩主。

5男 成次は忠政の娘を娶った事から最も重用される。嫡子(3男) 森忠広が早逝して森家に嫡子が無くなった時、外孫にあたる関家継が家督継承者に選ばれた。(相続権のあった次男は夭折。長男 重政は庶子であったために外されたが、早逝している。)

関家は成次次男 長政が継いだ。しかし、長政に後継がいなかったため、兄 長継6男(9男説) 長治を養子に迎え継承する。
津山藩から分地された1万8700石にて宮川藩立藩。森氏の支藩としてその分家の待遇となる。
関氏は9代174年にわたり新見に在封した。



●森越中守――
森赤穂家・赤穂藩森家、美濃森家 、森氏宗家

1、忠政、従五位下・右近大夫、従四位下、侍従、美作守、従四位上、左近衛権中将
森可成6男。美濃森家嫡流16代。
※事績、戦功は数知れぬため割愛する。
信濃国川中島藩13万7500石 →美作国津山藩18万6500石

2、長継、従四位下、侍従、大内記
関成次長男。室 忠政娘。
承応元(1652)年12月、弟 関長政に1万8700石を分与、宮川藩立藩。
美作国に隠居領2万石。

3、長武、従五位下・伯耆守、従四位下
長継3男(5男?)。中継ぎ。
延宝4(1676)年、弟 長俊へ勝北郡北部1万5千石を分知、津山新田藩を立藩。
(元禄10(1697)年、本家改易に伴い、播磨国三日月藩(1万5千石)へ転封となる。)
貞享3(1686)年、甥 長成に藩主を譲った長武は隠居領として津山藩蔵米2万俵を与えられた。
(元禄9(1696)年、この2万石を基に弟の長基を養子に迎えて分家(津山新田藩)を興そうとしたが、長成の反対、長基との不仲・病弱、江戸産府命に反するなど、実現しなかった。同年5月18日に死去(52)。)

4、長成、従四位下・美作守、侍従
忠継3男(長継長男。嫡孫)。
元禄8(1695)年10月、生類憐れみの令により建設される武蔵国児玉郡中野村の犬小屋の普請総奉行に任命される。

5、衆利(あつとし)
長継9男(12男?)。
元禄10(1697)年7月、将軍拝謁のため(家督継承の挨拶。長成は6月に死去)の道中、伊勢国桑名付近の縄生村に滞在中に発病した上、幕政を批判して発狂したとされる。
発狂の理由として、中野村の犬小屋に収容していた数多の犬たちを浪人らが殺す事件が発生し、その管理を怠ったとして家臣 若林平内が切腹にされたことへ、なぜこのような法令のために死なねばならぬのかと疑問があったからとされる。
家臣は酒の席でのことと弁明をしたが、桑名藩より詳細な報告が幕府に入り、裁定により8月2日、改易となった。
しかし、隠居の長継がまだ存命だったこと、徳川家への勲功多き家柄であること、八幡太郎源義家の由緒ある血脈(7男源義隆が相模国愛甲郡毛利庄に入った遠祖)であることなどから、特別に家名存続を許された。
(隠居領2万石を安堵されただけとも。)

6、長継(2代。再相続)
→備中国西江原藩2万石
7、長直、従五位下・和泉守
長継8男。
→播磨国赤穂藩

8、長孝、従五位下・志摩守
家老職 森采女家(7000石) 三隆3男(森三信嫡男←森可澄次男、可春養子)。
※可成4男 森可春(よしはる)が采女正を名乗り、以降代々家老職として本家に仕える。
※可成次男 森可澄(よしずみ)の家系は旗本(森左兵衛家)として明治まで存続。

9、長生(ながなり)、従五位下・越中守
藩重臣 各務利直長男。母が有馬氏で森正方娘(森正矩2000石家老嫡男←森正次1000石藩士嫡男←森可政1500石中老5男(?))。

10、政房、従五位下・伊勢守
各務利直6男。
11、忠洪(ただひろ)、従五位下・和泉守
各務利直7男。
12、忠興、従五位下、山城守、出雲守
嫡男。
13、忠賛(ただすけ)、従五位下・伊予守、大内記、出雲守
忠洪3男。
14、忠哲(ただあきら)、従五位下・和泉守
忠賛4男。
15、忠敬、従五位下・美作守、越中守、肥後守
忠賛10男。

16、忠貫(ただつら)
嫡男。
文化13(1816)年閏8月13日生まれ。文政7(1824)年6月4日、忠敬死去。文政10(1827)年5月28日死去(12)。
忠貫には継嗣が無く、無嗣改易となることを恐れた藩重臣らは、弟の忠徳を身代わりに立て、忠貫没後の6月に家督を継がせたとしている。
このため、忠貫は歴代藩主として数えられていない、後に忠貫が忠徳と改名したとされている、10代藩主の忠貫と忠徳は表向き同一人物とされている。
16、忠徳、従五位下・信濃守、越中守
忠敬3男。

17、忠典(ただつね)、従五位下・美作守
嫡男。
18、忠儀(ただのり)、従五位下・越後守、子爵
忠徳3男。





「西五反田3丁目 柳生家下屋敷」内→ http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=2012679793&owner_id=32815602 コメント欄コピペ──

【道なりで目黒駅。ここいらから駅舎西側は広く細川越中守サン家。その東、上大崎3丁目は森伊豆守サン家。】

細川越中守→ http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=1886502406&owner_id=32815602

2015年05月01日 11:09
●森佐渡守――
伊豆守・対馬守
森三日月家・三日月藩森家、美濃森家分家

1、長俊、従五位下・対馬守
2、長記(ながのり)、従五位下・安芸守
3、俊春、従五位下・対馬守、安芸守、佐渡守
4、俊韶(としつぐ)、従五位下・対馬守、河内守
5、快温(はやあつ)、従五位下・下野守
6、長義、従五位下・河内守、伊予守
7、長篤、従五位下・対馬守
8、長国、従五位下・佐渡守
9、俊滋(とししげ)、従五位下・伊豆守、対馬守

大崎を歩く機会はなさそうだからコチラに……f(*^v゜)テヘペロ!

追記――
森対馬守長俊。美作津山新田藩主のち播磨国三日月藩初代藩主。
津山藩主 森長継5男。母は側室 湯浅丹後娘(継光院)。
正室 永井尚政娘。
嫡男 長記、次男 長広、3男 光照。

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