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本能寺跡碑(中京区)本能寺推定跡地南

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Photos: 本能寺跡碑(中京区)本能寺推定跡地南

Photos: 本能寺推定跡地(中京区)北面 Photos: 本能寺推定跡地(中京区)南面より

本能寺推定跡地南、蛸薬師通・小川通交差点南。



(17.12.02.)
巡回先、光秀関連1件追加されたので、概略所感、また記して流しますですはい。7回目。
※ずいぶん前に読んだ明智憲三郎氏著「本能寺の変 431年目の真実」8章でしたかねここいらは。ここからピックアップしていた概略・所感? のメモ書き、の羅列です。前回からの続き? になります(σ・∀・)σ

天正10(1582)年、日本の政治状況、軍事情勢が大きく変わろうとしていた。
甲州征伐。越後上杉は柴田勝家に押し込まれ。中国毛利は秀吉が抑え。四国長曾我部征伐を準備。

2月9日の信長のお触れ(信長公記要約)。

「武田攻めには信長自身が出馬し、筒井順慶を召し連れていくので準備すること。三好山城守(康長)は四国へ出陣すべきこと。秀吉は中国へ宛て置くこと。細川藤孝は在国し息子与一郎(忠興)が出陣すること。光秀も出陣の準備をすること。遠国につき人数少なく連れて行くこと」

2月3日、甲州征伐へ信忠麾下の先鋒隊が出陣。最初の戦闘は2月16日の鳥居峠。

四国征伐の号令、信長の甲州出陣のお触れが、家康討ちの事前調査、準備開始を示している。
信長の出陣は武田滅亡間近の3月5日。安土城出発。

ちなみに家康は1日に内応してきた穴山梅雪の案内で、4日に甲斐侵攻を開始。

6日に揖斐川到着。なぜこの時期に軍を引き連れて終戦間近の甲斐へ繰り出したのか。それも光秀とその組下大名ばかりを連れて。

信長、光秀、細川忠興、筒井順慶、丹羽長秀、堀秀政、長谷川秀一、蒲生賦秀、高山右近、中川清秀以下6万の軍勢。

遠国につき人数少なくと指示しているが、兵糧の心配と軍勢を多く見せるよう奮起せよとも伝えている。

3月8日付の柴田勝家宛の書状には、「吾々出馬は専無く候へども、連々関東見物の望みに候」と関東見物であると信長自身が記している。

惟任退治記はこれを「富士山見物」と後に書いている。また、「将軍(信長)年来富士山見物の望みこれあり。此の山、天竺(印度)、震旦(中国)、扶桑(日本)三国無双の名山なり。是において吾が山となし、これを見て大望を達す。快喜斜ならず。

然らば、遠州、参州の主徳川参河守家康の館にあり、滞留をなし、御父子相伴ひて御馬を納れ給ひぬ」と信長の喜びようを強調している。

信長公記にも「富士の根かたを御覧じ、駿河・遠江へ御まわり候て、御帰洛あるべき旨、上位候て」と富士の麓を見物したいと言ったこと、溶岩洞窟を見物したことが記されている。

これも周到な準備で、真の狙いは「駿河・遠江を通って帰る」こと。関東見物など行っていないに等しい。

室町期の「関東」は、坂東と呼ばれてきた相模国・武蔵国・安房国・上総国・下総国・常陸国・上野国・下野国の8ヶ国に、伊豆国・甲斐国を加えた10ヶ国と認識されている。箱根以東。

関東見物ではなく家康領視察。敵地視察。寵臣光秀を連れて慰安旅行、などと信長の政治的・軍事的性格からは考えられず。今川領のち武田領であった駿河は、三河遠江以上に情報がなかったはずだ。

このときの同行者は軍事においては光秀の指揮下に入る者たち。家康領侵攻軍の編成はすでに決めていたのだろう。

富士山見物という偽装をより強調したのが秀吉の惟任退治記。秀吉には別の目論見があって、信長と家康の軋轢を隠そうとした。

信長の巡察ルートは詳細に太田牛一が信長公記に記している。

4月12日、富士山見物のち駿河大宮城。
13日、富士川、天神川、深沢城、久能城、江尻城。
14日、今川古城、安倍川、持舟城、丸子城(? “まりこの川端の山城”)、田中城、花沢城。
15日、背戸川、大井川、真木城、諏訪原城、菊川、懸川城。

16日、高天神城、小山城、天竜川、濱松城。
17日、浜名湖、吉田城。
18日、吉田川、大比良川、岡崎城、腰むつ田川、矢作川。

家康は信長一行を迎えるために道路や橋の修繕を各地で行なった。なんとも都合のよい話である。行軍に不可欠なのだから。

また徳川の史料、「当代記」には、「どこの宿泊でも光秀は老人なので信長の宿舎の近くに宿を仰せつけられた」と書かれている。毎夜、信長と光秀は膝を突き合わせて巡察結果を整理していたであろうことが窺える。

天正10(1582)年4月21日、安土凱旋。ただちに家康、穴山梅雪らを安土城へ招待する。
家康は駿河拝領の御礼、梅雪は本領安堵の御礼と信長公記に記されている。家康は駿河一国の拝領により、このとき名実ともに信長の家臣となっていた。

5月14日、光秀の饗応役ぶりは「おびたただしき結構」と信長公記にある。

17日、光秀以下家臣らに暇を与える。
20日、信長みずから家康らをもてなす。
21日、堺見物を命じる。
29日、信長上洛。6月2日に家康一行を本能寺へ招待する。

一瀉千里(いっしゃせんり)に事態は進行。「家康討ち」が歴史書に記される──はずだった。

そもそも、どうして家康を討とうとしたのか。

信長と家康の同盟は異常に長く続いていた。往時の同盟に信義や仁義などなく、時と場合で切って結んで裏切って、だ。
信長が家康と結んだのは、桶狭間で今川義元を討ったはいいものの、四方を敵に囲われていたためで、少なくとも東の脅威は、と壁を設けたに過ぎない。

義元が死んだとはいえ、東海の大大名の勢力はいまだ健在。背後には武田、北条と大きな存在があった。

天正10年武田氏は滅亡した。東の最大の脅威が滅んだことで、家康の価値は激減した。しかし、直ちに滅ぼさなくてはならなかったのか。

旧来、織田氏と松平氏は敵同士だった。
家康祖父 松平清康の守山崩れ(清康暗殺)は、信長父 織田信秀の策謀説がある。(三河統一を成し遂げた清康は尾張へ侵攻、守山城を攻撃した。)

家康父 松平広忠は今川義元の旗下で働かされ力尽きた。このときの敵対者も尾張織田信秀。病死説、謀殺説とある。

そして同盟後。
天正3(1575)年、家康伯父 水野信元が武田勝頼に内通した嫌疑で殺害された。
天正7(1579)年、家康嫡男 信康が同様の嫌疑で切腹。築山御前殺害。

これが信長の意思であるならば、家康は強烈な遺恨をもったであろうが、家康主体説もあり、であるならば信長は家康に不信感を抱いたであろう。

天正9(1581)年、第2次天正伊賀の乱。ついに征圧成功、大虐殺という結果。伊賀から落ち延びてきた者を家康は匿った。
天正10年、甲州征伐においても信濃含む武田旧臣らを密かに匿い取り込んだ。

信長がこれを覚知していれば、警戒心を高める要因のひとつになっていただろう。

信長は往時の日本人にはない思考能力を持っていた。先見の明もあった。差し迫った危険は今はない。だが唐入りに乗り出したとき、国内で叛旗を翻す者が現れるかもしれないと。

フロイスの記していたとおり(先述)、秀吉が唐入りを号令したとき人心は大いに動揺し、どこの誰かが謀叛を起こすと噂が流行った。信長も同じ状況下に達していたならば。

そして源平の失敗を繰り返すまいと(先述)、自身が死に、子の代になった時にこれを脅かす危険人物はいま自分が排除しておく。

信長の判断。家康は取り除かなければならない。

この思考は誰も証明できるものではない。著者も記す。しかし、歴史がその判断を的を射た適切なものだったと示している。

豊臣秀吉の失敗。

一代の栄華。子の代に一族滅亡。源平と同じ轍を踏んだ。失敗だったものは上げればいくつもあるだろうが、決定的なものはひとつ。一族を滅亡へと追いやった直接原因を排除しておかなかったこと。

信長の最期の言葉と伝わる「是非に及ばず」。太田牛一は本能寺から逃れた女性たちに取材して次のように書いている。

「是れは謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚のところに、森乱(乱丸)申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候」

是非に及ばずは辞書を引くと「仕方ない」と訳されているが、これは上意として発せられている。つまり文字通り「是が非か確かめる必要なし」と訳される。

信長には察しがついたのだろう。だから、「確認する必要はない」。また、これを証明しているのではないかと思われる言葉も書き残されている。「日本王国記」。イスパニア商人アビラ・ヒロンが記した。

ヒロンはこの中で信長の最期を「信長は明智が自分を包囲している次第を知らされると、何でも噂によると、口に指をあてて、余は余自ら死を招いたなと言ったということである」(佐久間正・会田由訳)

自らが仕掛けた罠に自らかかったと悟った信長がもらす言葉として相応しいものではないか。

太田牛一に信長の言葉を伝えた人物は判明しているが、果たしてもうひとつの言葉を聞いた証人は誰か。
多くが「そんな証言者はいない。ヒロンの作り話だ」と否定した。

京都の南蛮寺に九死に一生を得てたどり着いた人物がいる。巡察師ヴァリニャーノが連れてきた、アフリカ生まれの黒人奴隷だ。彼こそ、信長最期の言葉の証人である。

ヒロンは「噂によると」と書いている。特定の人物から語り聞いたわけではない。そもそもヒロンは本能寺の変から12年後の文禄3(1594)年に日本へ来ている。4年間長崎で生活し、そのとき交流のあった者たちから耳にしたのであろう。

渡来人が交流する相手。イエズス会の者たちだ。

本能寺の変のとき、カリオン、ロレンソ、ベルトラメウは京都の南蛮寺にいた。オルガンティーノ、フランシスコ、ダルメイラ、ペレイラ、パズ、ビセンテは安土城におり、報せを受けて城を脱出、命の危険に脅かされながらも京都の南蛮寺に入った。

フロイス日本史にそうある。

黒人奴隷についてフロイスが記した書簡がある。

天正9年4月、「多数の人が集まって黒奴を見ようとして騒ぎが大きくなり、投石による負傷者を出し、また死者も出そうな状況となった。もし金儲けのために黒奴を見せ物にしたら短期間に大金を得ることは容易だと皆言った」(村上直次郎訳「イエズス会日本年報 上」より要約)

そして日本人修道士ロレンソが10月に書いた書簡には、安土で信長が初めて黒奴に会った状況が書かれている。

「信長自身もこれを観て驚き、生来の黒人で、墨を塗ったものでないことを容易に信ぜず、度々これを観、少しく日本語を解したので、彼と話して飽くことなく、

また彼が力強く、少しの芸ができたので、信長は大いに喜んでこれを庇護し、人を附けて市内を巡らせた。彼を殿とするであろうと言う者もある」

信長公記にもある。「二月二三日、きりしたん国より黒坊主参り候。年の齢二十六、七と見えたり。惣の身の黒き事、牛の如し。彼の男、健やかに、器量なり。しかも強力十の人に勝れたり」

家忠日記にもある。天正10(1582)年4月19日、“関東見物”にも黒奴を同行させていた。
「くろ(黒)男御つれ候、身ハすミ(墨)ノコトク、タケ(丈)ハ六尺二分、名は彌介(やすけ)と云」

この彌介が、本能寺の変の折信長の命を受けて動いていた。フロイスが「一五八二年日本年報追加」に記している。(村上直次郎訳「イエズス会日本年報 上」)

「ビジタドール(巡察師)が信長に贈った黒奴が、信長の死後世子(信忠)の邸に赴き、相当長い間戦っていたところ、明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差し出せと言ったのでこれを渡した。

家臣はこの黒奴をいかに処分すべきか明智に尋ねたところ、黒奴は動物で何も知らず、また日本人でない故これを殺さず、インドのパードレの聖堂に置けと言った。これによって我等は少しく安心した。」

彌介は本能寺を脱出して二条御所へ駆けつけ、そこで奮戦していたようだ。日本語も正しく聞き取れていると判断できる。

イエズス会アジア地区の本拠はインドのゴアにあり、宣教師たちはそこから送られてくる。それを光秀は知っていた。

このときフロイスは京におらず、本能寺直近の南蛮寺(3階建)から事件の様子を傍観していたイエズス会メンバーから話を聞いて記したのだろう。

イエズス会メンバーたちは彌介から現場の様子をあれこれと聞いてそれを記し、フロイスにも伝えたのだろう。

彌介は小姓として信長の直近にあり、本能寺の変当日も側で不寝番をしていたのだろう。襲撃が起こり、彌介は信長の命で、本能寺から離れたはずだ。ただ逃げ出したのであれば、南蛮寺に駆け込むであろうから。

何か言葉を預かって信忠のもとへ走ったであろうに。光秀は信忠が京にいることを知らなかったのに。信忠は信長の遺志を受け取らなかったであろう結末を迎えた。

信長の直近に控えていたということで振り返る。先述、「これらの催し事の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが、~中略~、人々が語るところによれば、信長の好みに合わぬ要件で明智が言葉を返すと信長は立ち上がり、

怒りを込め一度か二度明智を足蹴にしたということである。だがそれは密かになされたことであり、ふたりだけの間での出来事だったので後々まで民衆の噂に残ることはなかった」

後々までということは、かなり時間が経過している。
人々から語るところ、を聞いて記している。

ふたりだけの密室に立ち会えた人物は信長の小姓たちだけだろう。そしてその小姓たちは全員本能寺で討ち死している。つまりイエズス会に信長の言動、行動、秘密裏のものはなおで、それらを伝えたのは唯一の生き残り、彌介だ。

国内には残らない信長の記録がなぜイエズス会にだけ残っているのか。

しかし彌介のこのあとの消息は不明である。海外へ脱出したのかできたのか? 本能寺の変から4年の間にどこかへ消えた。

フロイスは天正14年に京へ来ているが、彌介と接触した形跡がない。会っていれば信長の話を追求したことだろう。

彌介の身に何らかの、フロイスの姿勢から考えると、神の摂理では説明のつかない出来事が起きた可能性がある。

後年、フロイスが書いた「日本史」の中で、天正9年4月の書簡や一五八二年日本年報追加に記した彌介についての記述が一切削られているのだ。

フロイスは日本史をまとめるに際して、本能寺の変に関する記述については「一五八二年日本年報追加」の記事を踏襲し、さらに記述を膨らませて書いている。ところが彌介についての記述だけはそっくり削除されている。

本能寺の変後、京都の軍事・警察権は秀吉が一手に握った。当然、イエズス会や南蛮寺のことも細かに探らせたと思われる。そして彌介の生存を知ったのだろう。

秀吉は惟任退治記の記述と異なる真実が彌介の口から広まることを恐れたはずだ。そこで都合のいい理由で彌介を引き取るなり、何某かを理由に消息を断たせたのだろう。

つまり彌介の存在、その持つ情報は、秀吉にとって不都合なものだったということだ。

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